深夜にどうも。時々失調しております最近の私。過去を思い、未来に思う。で、リンクを見ると、まだ生きてたのか。鉄人・賀曽利隆。80年代のMr.バイクで、切れ掛かったチェーンを繋ぎながら南米回ってるのを読んでから忘れ去ってたが、生きてるどころか、まだ走り回ってるとは。そだなあ。使った時間は戻らないが、誰もが終点まで進むしかないとしたら、最後の事は思い迷わずに、ただ走るしかないんかな。願いがあるとしたら、走り終わった事に気づかぬままに行きたいという事くらいか。
賀曽利氏は私も驚きました。私の日本一周中だか前の年に何度目かの日本一周で石垣・西表を通過しているのは、旅人のネットワークで入手した情報で知ってたんですが。何せ、おむつしょって、赤ちゃん連れた奥さんの手引いてまでサハラ越えた人ですからねえ。珍しいテントなし派という事もあり、良くも悪くも伝説です。最後の願いか。個人的には、どっちがいいんだろう。でもまぁ、死んで消えてしまうならそれはそれでいいし、もし消えずに(あの世だかなんだか知らないが)活動できるというのなら、そのまんま旅していたいですねえ。いかりや長介さんが亡くなった時、ネット上のアフリカ系の旅人掲示板にいる人たちが話してたのを今も覚えてます。「長さんのこった。きっと今頃ケニアの田舎のバス停で空見てるんだろうぜ」「んだなー」確かにあの人ならありそうだ、と思ったのですが、それは同時に「そうであって欲しい」という願いでもありました。アフリカの毒にどっぷり犯された旅人ですからね。最後に彼が望んだのが何かはわかないが、死後突然にケニアの道端にいる自分に気づいても「ああ」とそのままバスを待っていそうです。
多分、私が陥っているのはいわゆる「中年の危機」という奴だと思いますよ(笑)。通常は「思春期」「中年」「老年」にそれぞれ、これが襲うんだそうな。要するに「最後には死ぬ」事の自覚が固まるのが思春期。で、通常は生きがいの発見でこれを乗り越える。たいていの人は大事な誰か(友、恋人、知人)との関係性の中で承認され、生きる事の楽しさの中に一旦は埋没する。そして順当に進むと、家族も出来、仕事は功成るかどうかはともかくある程度のところ(行く先が見えるところ)に辿りつく。思春期から中年と言うのは、「築く」事、「耕せば実りがある。そこに幸せがある。」と、信じて色々なものを作って行く時期だし、実際にやっている最中は楽しい。しかし、それが永遠には続かない事、全てはうつろうしかなく、自分がやがて老いて退場する事を自覚すると:「俺は、一体何をやってるんだ」と言う虚脱感が襲うわけだ。健やかに老いるにせよ、もう一旗挙げて賑やかに散る事を望むにせよ、ここでもう一度問い返すべき疑問は、既に先人が用意してくれている。生きると言う事は:「死に至る病と闘いながら、いかに生きがいを求め、健やかに過ごすかと言う事」死に至る病とは:「死んだら全てがリセットされる、と捉え、それまでの人生を虚無感に食われて無為に過ごす事。死後の世界がないなら、この世で充足する事を求めた方がましな人生だろう。死後の世界があるなら、ツケは貯めない方が利口だ。」死後の世界など本当にあるのか:「こればかりは、天(神)に任せるしかないだろう。それが信仰である(素朴な信心とも言える)。」と、実存主義者は言っている。昔の哲学者はこういう時、ナチュラルに神を持ち出すが、今でもこういう場合は持ち出して良いだろう。スタートレック6のタイトルにもなっているが、シェイクスピアが言う「未知の世界」と言うのは、あの世の事である。と同時に、未来の事でもある。未知の世界に踏み込む時、頼れるのは運、つまり天佑しかない。ある意味、明日だって未知の世界なわけだ。生きている事自体、天佑で「生」の札を拾い続ける事なんだよな。さだめし鉄人は、最後まで走り続ける事を選んだのだろうな。あの人らしい、というか、そうでしかありえなかったというか。
ですな。>>最後まで走りつづけることを選んだ80年代の奴……世界七大陸周遊だか何だかの時より後か。あの人はもとより、旅人の世界三大禁忌(ナイルの水、パタゴニアの風、アフリカの毒)を骨の髄まで体験しているような人です。どのみち普通の生活には戻れないとは思いますが……まだお元気でいるのはうれしいですね。しかしまぁだいたい同意です。死を恐れ未来を恐れるのは当然の事なんですが、確実にやってくる「未来」を恐れるあまり「今」も塗りつぶしてしまったらあまり意味がない気がするのですね。「備えよ、しかし恐れるな」がきっと正しいのでしょう。とりあえず今のところ、自分の人生は、もし明日亡くなるとしたら「回り道だらけだなぁ。でも面白かったかな」と苦笑いできるものではある。苦笑いしなくてすめば一番という人もいるのだけど、それはどうかな。苦味の全くない人生というのは、さすがにつまらないと思う。今までを振り返ったって、よく覚えているのは実にバカバカしい事とか、どうでもいい事ばかりじゃないですか。自分で過去の自分の諸行みて、穴に入りたいくらい笑い転げたり真っ赤になる自信ありますよ、ええ ^^;ならば「おれの人生面白かったなぁ」と最後に皆が引くくらいにゲラゲラ笑うためには、あまり小難しくなりすぎず、そこそこ小賢しく、でも基本的にはバカでくだらない人生を歩んだほうがいいんだと思います。……いやマジで XD
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4 件のコメント:
深夜にどうも。
時々失調しております最近の私。
過去を思い、未来に思う。
で、リンクを見ると、まだ生きてたのか。
鉄人・賀曽利隆。
80年代のMr.バイクで、切れ掛かったチェーンを繋ぎながら南米回ってるのを読んでから忘れ去ってたが、生きてるどころか、まだ走り回ってるとは。
そだなあ。
使った時間は戻らないが、誰もが終点まで進むしかないとしたら、最後の事は思い迷わずに、ただ走るしかないんかな。
願いがあるとしたら、走り終わった事に気づかぬままに行きたいという事くらいか。
賀曽利氏は私も驚きました。私の日本一周中だか前の年に何度目かの日本一周で石垣・西表を通過しているのは、旅人のネットワークで入手した情報で知ってたんですが。
何せ、おむつしょって、赤ちゃん連れた奥さんの手引いてまでサハラ越えた人ですからねえ。珍しいテントなし派という事もあり、良くも悪くも伝説です。
最後の願いか。
個人的には、どっちがいいんだろう。でもまぁ、死んで消えてしまうならそれはそれでいいし、もし消えずに(あの世だかなんだか知らないが)活動できるというのなら、そのまんま旅していたいですねえ。
いかりや長介さんが亡くなった時、ネット上のアフリカ系の旅人掲示板にいる人たちが話してたのを今も覚えてます。
「長さんのこった。きっと今頃ケニアの田舎のバス停で空見てるんだろうぜ」「んだなー」
確かにあの人ならありそうだ、と思ったのですが、
それは同時に「そうであって欲しい」という願いでもありました。
アフリカの毒にどっぷり犯された旅人ですからね。最後に彼が望んだのが何かはわかないが、死後突然にケニアの道端にいる自分に気づいても「ああ」とそのままバスを待っていそうです。
多分、私が陥っているのはいわゆる「中年の危機」という奴だと思いますよ(笑)。
通常は「思春期」「中年」「老年」にそれぞれ、これが襲うんだそうな。
要するに「最後には死ぬ」事の自覚が固まるのが思春期。
で、通常は生きがいの発見でこれを乗り越える。
たいていの人は大事な誰か(友、恋人、知人)との関係性の中で承認され、生きる事の楽しさの中に一旦は埋没する。
そして順当に進むと、家族も出来、仕事は功成るかどうかはともかくある程度のところ(行く先が見えるところ)に辿りつく。
思春期から中年と言うのは、「築く」事、「耕せば実りがある。そこに幸せがある。」と、信じて色々なものを作って行く時期だし、実際にやっている最中は楽しい。
しかし、それが永遠には続かない事、全てはうつろうしかなく、自分がやがて老いて退場する事を自覚すると:
「俺は、一体何をやってるんだ」
と言う虚脱感が襲うわけだ。
健やかに老いるにせよ、もう一旗挙げて賑やかに散る事を望むにせよ、ここでもう一度問い返すべき疑問は、既に先人が用意してくれている。
生きると言う事は:
「死に至る病と闘いながら、いかに生きがいを求め、健やかに過ごすかと言う事」
死に至る病とは:
「死んだら全てがリセットされる、と捉え、それまでの人生を虚無感に食われて無為に過ごす事。
死後の世界がないなら、この世で充足する事を求めた方がましな人生だろう。
死後の世界があるなら、ツケは貯めない方が利口だ。」
死後の世界など本当にあるのか:
「こればかりは、天(神)に任せるしかないだろう。それが信仰である(素朴な信心とも言える)。」
と、実存主義者は言っている。
昔の哲学者はこういう時、ナチュラルに神を持ち出すが、今でもこういう場合は持ち出して良いだろう。
スタートレック6のタイトルにもなっているが、シェイクスピアが言う「未知の世界」と言うのは、あの世の事である。
と同時に、未来の事でもある。
未知の世界に踏み込む時、頼れるのは運、つまり天佑しかない。
ある意味、明日だって未知の世界なわけだ。
生きている事自体、天佑で「生」の札を拾い続ける事なんだよな。
さだめし鉄人は、最後まで走り続ける事を選んだのだろうな。
あの人らしい、というか、そうでしかありえなかったというか。
ですな。>>最後まで走りつづけることを選んだ
80年代の奴……世界七大陸周遊だか何だかの時より後か。
あの人はもとより、旅人の世界三大禁忌(ナイルの水、パタゴニアの風、アフリカの毒)を骨の髄まで体験しているような人です。どのみち普通の生活には戻れないとは思いますが……まだお元気でいるのはうれしいですね。
しかしまぁだいたい同意です。
死を恐れ未来を恐れるのは当然の事なんですが、確実にやってくる「未来」を恐れるあまり「今」も塗りつぶしてしまったらあまり意味がない気がするのですね。「備えよ、しかし恐れるな」がきっと正しいのでしょう。
とりあえず今のところ、自分の人生は、もし明日亡くなるとしたら「回り道だらけだなぁ。でも面白かったかな」と苦笑いできるものではある。
苦笑いしなくてすめば一番という人もいるのだけど、それはどうかな。苦味の全くない人生というのは、さすがにつまらないと思う。
今までを振り返ったって、よく覚えているのは実にバカバカしい事とか、どうでもいい事ばかりじゃないですか。
自分で過去の自分の諸行みて、穴に入りたいくらい笑い転げたり真っ赤になる自信ありますよ、ええ ^^;
ならば「おれの人生面白かったなぁ」と最後に皆が引くくらいにゲラゲラ笑うためには、あまり小難しくなりすぎず、そこそこ小賢しく、でも基本的にはバカでくだらない人生を歩んだほうがいいんだと思います。
……いやマジで XD
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