そこで、ブラヴァツキーとか黄金の夜明け団とか、アレイスター・クロウリーとか、カルロス・カスタネダ(こいつは時代がずれていて、魔術と言っても精霊系だが)とか言う名前がすぐ出てきて、実は朝松健の「魔術戦士」(絶版)を全部読んでいたとか、「ムー」でラスプーチンの名前を覚えたとか、そういう文化的共通項のようなものがありながら、系統的な魔術知識は全く持たない所が、似ているようで異なるわれわれのバックボーンの相違なわけですね(笑)。思えば、インターネット時代以前は、系統的に魔術知識を得るにはオカルト系の本を買うしかなかったわけで、知識が体系化し、秘教が顕在化するについては、インターネットのサイトの発達が非常にものを言っている。中野ブロードウェイは20年近く前に一回だけ行ったことがあるが、古ぼけたものが一杯あると思っただけで、当時は正体が良くわからんかったなあ・・・。
Golden dawnは名前しか知らないし、クロゥリーの『トートのタロット』は持ってるけど大判すぎて実用的とは言い難いし(あれは特別な場所で、特別な儀式をもって使うものだと思う……)、ドンファンの教えはもちろん持っている(た)わけで、古書店とか回ってオカルトの本や魔導書や解説書を探し歩いた日々がとても懐かしいものがありますね。 XDたまにそれっぽい名前がみつかっても、それは大抵がキリスト教系の悪魔や魔女の研究書であって、あまり役に立っているわけではない。(もっとも、そんな時代かそれ以前に書かれているに関わらず、美内すずえの『魔女メディア』は、背景には実在する(すると言われているものも含む)魔法書が無造作に並び、ちゃんとオカルトの教科書通りに悪魔を呼び出すシーンがあるあたりが「ちょ、この時代にどうやって調べたんだこの人 @@;」と思わせたのでしたが……。一時期のオカルトブームの時、つまんない本の群れに混じってごく少数のようですが、本格的な白魔術(Witchcraftレベルではありますが)の本や、タロットカードの解説書でありながら「これって、ただの占い師向けの文じゃないよな…」って内容のものも出版されていましたね。それらの本を読んではじめて、タロット・カードがしばしば魔術結社や魔術師と呼ばれるタイプの人々によって作られている意味もわかったし、春分や秋分の日、朔の日に行う事とか、そういうのをたくさん学ぶ事ができたのですね。私は逆に昔の中野ブロードウェイを全く知らないのですが(実は今年はじめて行った。昔も行ったのかもしれないが全く記憶すらしていない)、あんな「濃い」街になっていったのはそう昔の事ではないと聞いてます。あくまで聞いた話なので実状は知らないけど、少なくとも、年々濃くなりつづけてはいるそうですね。
魔術的なもの、それ自体を荒唐無稽と眉唾つけて最初から切り捨てるのは実に簡単な事ではあるのですが、魔術やオカルトの学習の中には、現代に普通に生きるにも非常に役立つ事がいくつかあると考えます。そのひとつが「自分を知る事」と思います。 そもそも魔術の世界には「願望」という要素がたくさん出てきます。何かについて知りたい、あるいは獲得したいといった諸々の「願望」です。それは物理的なものとは限らないわけですが、それゆえに「自分が何を欲しているのかを正しく知る」事が魔術師の一番初歩中の初歩のカリキュラムとして必要とされていますよね。そう、うちのページやブログでしばしば触れる事がある「will,want,willの区別をつける」という話であります。 自分が本当に欲しているものは何かを知り、分類し、場合によってはそれを叶えんとする。自分自身すら知らず制御もしていない者が、世界を知り制御する事などできるわけがないというわけです。 結構これ、世の中のいろいろなところに通じる根本原理じゃないかとあの頃から思っています。
ああ。原始仏教からスピリチュアルに到るまで、人間のメンタル面と神秘主義の境界面を追求した人々は、色々なやり方で「心身を練磨し、真の自分に至る」メソッドを作り出した。ネイティブのヴィジョンクエストは、そうした「意志」の導きを大精霊に求め、原始仏教は瞑想と自省に求める。そうした手法と学問体系の価値は、まだなくなっていないでしょう。ただし、その「先」つまり、超自然的な存在や力の実在に関しての是非は「現時点では判らない」としか言いようがない。
つのだじろう『うしろの百太郎』でしたか。霊の世界を認めない世の中と目の前の現実の間で悩む主人公に、彼の犬が言った言葉を時々思い出します。「何つらつら悩んでやがるんだ。(中略)有るものは有る、それはいつか必ず証明されるさ」母方の祖父が若い頃、金持ちと思われて村田銃を持った男につけ回された事があるらしい。だが行く先行く先で助けが現れた。そしてその全ての人が、亡くなった祖父の母上そっくりの女性に事前に会って祖父の到着を待っていたという。この祖父の里は古い神道の家系であるが、祖父の上の世代はさらにとんでもなくて、亡くなった本人が出雲に自分の葬式について出向いて依頼、神主がタイミングぴったりにあわせて出雲からやってきたなんて信じられない話が普通に転がっている。こんな昔話はともかく、バンシーの啼き声で死者の出る家を見つけ出すなど、今もあたりまえに通用している「今はまだ説明のつかない、だけどちゃんと成立している事象」はこの世に無数にある。それが何であるか。少なくともそれは、未だ解明されていない事象か方程式がそこにあるという事でしょう。いや、それ以前に「気が張っている」「気が抜けている」なんて理由で急速に老いたり病気になったり、あるいは健康であったりする理由については最近やっと解明されはじめたとという感じで、今まではまさに「気のせい」扱いでしかなかったわけで、かつての科学的常識なんかこの時点でひっくりかえっている。「非科学という表現は間違いです。未だ解明されていないのなら、それは未科学と言うべきでしょう」SF系(一部スピリチュアルな面もあるが)少女漫画の真骨頂のひとつと私が勝手に思っている傑作『樹魔・伝説』で語られていた事です。なるほど、真に科学的立場を問うならば、未解明な事象は未解明であって、勝手な常識感覚で眉唾つけるもんではないのだな、と子供心に思ったものでした。……でも、これが解明される事が本当に正しいのか、と疑問を投げかけている話もありましたな。『神』の正体が人類の集合的無意識であると解明され、人間がそれらの力を使いこなせるようになった未来。主人公はひとつの事件を追う。そこで彼は、未熟で未成熟で野蛮な過去に行き、その文明の中で、しかし『神のいる』世界の奇跡と救いをまのあたりにするというものです。題名忘れた orz「──だけど、わたしたちの世界には、もう神はいない」悲しげな主人公のつぶやきが胸にささる一編でした。ああ、またあれ読みたいなぁ。なんて作品だったろう。
>ああ、またあれ読みたいなぁ。なんて作品だったろう。それは恐らく、麻紀ゆう原作/道原かつみ作画「ノリ・メ・タンゲレ」です。主人公は、歴史調査局員のヴェアダル(この名前は「閏年」と言う意味です)。これはコミックリュウの連載作品で、この作品の原作と続編が掲載された同人誌は、私の荷物の中のどこかに今も眠っている。私と友人数名でこの作品をラジオドラマ(音声と音楽だけのドラマ)に仕上げ、リュウ編集部を通じて作者さんに送り、イエス・キリストを演じた友人の声が良かったと言うレスポンスを得ています(この男は後に小劇団の一員となった)。ね?世の中には、説明が付きにくい偶然があるでしょ(笑)。
おお、打てば響くような。さすが先生。>>麻紀ゆう原作/道原かつみ作画「ノリ・メ・タンゲレ」です。おおお@@それか。このタイトル「我に触れるな」というこれが強烈に記憶に残っていたのですが。ふむふむ>>ね?>>世の中には、説明が付きにくい偶然があるでしょ(笑)。いやまったく ^^;>>麻紀ゆう原作/道原かつみ作画このコンビの作品群は傑作多いですね。てか、ここで「ぴきゅーん」と反応しちゃうタイプのSF好きは貴重です。やたらとイケメンが多いですが ^^ いいんだいいんだ。パンドラの惑星(ほし)のティッチとか可愛い子の描写もおもしろい。(あの作品は、主人公の性格や行動も男性作家のそれとは違ってて実に面白い。全然別ジャンルだけどマンディアルグと片岡義男の比較みたいです)この方達と、萩尾望都系っぽい真乃呼『緑の世紀』あたりは個人的に外したくないところです。
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そこで、ブラヴァツキーとか黄金の夜明け団とか、アレイスター・クロウリーとか、カルロス・カスタネダ(こいつは時代がずれていて、魔術と言っても精霊系だが)とか言う名前がすぐ出てきて、実は朝松健の「魔術戦士」(絶版)を全部読んでいたとか、
「ムー」でラスプーチンの名前を覚えたとか、
そういう文化的共通項のようなものがありながら、系統的な魔術知識は全く持たない所が、似ているようで異なるわれわれのバックボーンの相違なわけですね(笑)。
思えば、インターネット時代以前は、系統的に魔術知識を得るにはオカルト系の本を買うしかなかったわけで、知識が体系化し、秘教が顕在化するについては、インターネットのサイトの発達が非常にものを言っている。
中野ブロードウェイは20年近く前に一回だけ行ったことがあるが、古ぼけたものが一杯あると思っただけで、当時は正体が良くわからんかったなあ・・・。
Golden dawnは名前しか知らないし、クロゥリーの『トートのタロット』は持ってるけど大判すぎて実用的とは言い難いし(あれは特別な場所で、特別な儀式をもって使うものだと思う……)、ドンファンの教えはもちろん持っている(た)わけで、古書店とか回ってオカルトの本や魔導書や解説書を探し歩いた日々がとても懐かしいものがありますね。 XD
たまにそれっぽい名前がみつかっても、それは大抵がキリスト教系の悪魔や魔女の研究書であって、あまり役に立っているわけではない。
(もっとも、そんな時代かそれ以前に書かれているに関わらず、美内すずえの『魔女メディア』は、背景には実在する(すると言われているものも含む)魔法書が無造作に並び、ちゃんとオカルトの教科書通りに悪魔を呼び出すシーンがあるあたりが「ちょ、この時代にどうやって調べたんだこの人 @@;」と思わせたのでしたが……。
一時期のオカルトブームの時、つまんない本の群れに混じってごく少数のようですが、本格的な白魔術(Witchcraftレベルではありますが)の本や、タロットカードの解説書でありながら「これって、ただの占い師向けの文じゃないよな…」って内容のものも出版されていましたね。それらの本を読んではじめて、タロット・カードがしばしば魔術結社や魔術師と呼ばれるタイプの人々によって作られている意味もわかったし、春分や秋分の日、朔の日に行う事とか、そういうのをたくさん学ぶ事ができたのですね。
私は逆に昔の中野ブロードウェイを全く知らないのですが(実は今年はじめて行った。昔も行ったのかもしれないが全く記憶すらしていない)、あんな「濃い」街になっていったのはそう昔の事ではないと聞いてます。
あくまで聞いた話なので実状は知らないけど、少なくとも、年々濃くなりつづけてはいるそうですね。
魔術的なもの、それ自体を荒唐無稽と眉唾つけて最初から切り捨てるのは実に簡単な事ではあるのですが、魔術やオカルトの学習の中には、現代に普通に生きるにも非常に役立つ事がいくつかあると考えます。
そのひとつが「自分を知る事」と思います。
そもそも魔術の世界には「願望」という要素がたくさん出てきます。何かについて知りたい、あるいは獲得したいといった諸々の「願望」です。それは物理的なものとは限らないわけですが、それゆえに「自分が何を欲しているのかを正しく知る」事が魔術師の一番初歩中の初歩のカリキュラムとして必要とされていますよね。そう、うちのページやブログでしばしば触れる事がある「will,want,willの区別をつける」という話であります。
自分が本当に欲しているものは何かを知り、分類し、場合によってはそれを叶えんとする。自分自身すら知らず制御もしていない者が、世界を知り制御する事などできるわけがないというわけです。
結構これ、世の中のいろいろなところに通じる根本原理じゃないかとあの頃から思っています。
ああ。
原始仏教からスピリチュアルに到るまで、人間のメンタル面と神秘主義の境界面を追求した人々は、
色々なやり方で「心身を練磨し、真の自分に至る」メソッドを作り出した。
ネイティブのヴィジョンクエストは、そうした「意志」の導きを大精霊に求め、原始仏教は瞑想と自省に求める。
そうした手法と学問体系の価値は、まだなくなっていないでしょう。
ただし、その「先」つまり、超自然的な存在や力の実在に関しての是非は
「現時点では判らない」
としか言いようがない。
つのだじろう『うしろの百太郎』でしたか。霊の世界を認めない世の中と目の前の現実の間で悩む主人公に、彼の犬が言った言葉を時々思い出します。
「何つらつら悩んでやがるんだ。(中略)有るものは有る、それはいつか必ず証明されるさ」
母方の祖父が若い頃、金持ちと思われて村田銃を持った男につけ回された事があるらしい。だが行く先行く先で助けが現れた。そしてその全ての人が、亡くなった祖父の母上そっくりの女性に事前に会って祖父の到着を待っていたという。
この祖父の里は古い神道の家系であるが、祖父の上の世代はさらにとんでもなくて、亡くなった本人が出雲に自分の葬式について出向いて依頼、神主がタイミングぴったりにあわせて出雲からやってきたなんて信じられない話が普通に転がっている。
こんな昔話はともかく、バンシーの啼き声で死者の出る家を見つけ出すなど、今もあたりまえに通用している「今はまだ説明のつかない、だけどちゃんと成立している事象」はこの世に無数にある。それが何であるか。少なくともそれは、未だ解明されていない事象か方程式がそこにあるという事でしょう。
いや、それ以前に「気が張っている」「気が抜けている」なんて理由で急速に老いたり病気になったり、あるいは健康であったりする理由については最近やっと解明されはじめたとという感じで、今まではまさに「気のせい」扱いでしかなかったわけで、かつての科学的常識なんかこの時点でひっくりかえっている。
「非科学という表現は間違いです。未だ解明されていないのなら、それは未科学と言うべきでしょう」
SF系(一部スピリチュアルな面もあるが)少女漫画の真骨頂のひとつと私が勝手に思っている傑作『樹魔・伝説』で語られていた事です。
なるほど、真に科学的立場を問うならば、未解明な事象は未解明であって、勝手な常識感覚で眉唾つけるもんではないのだな、と子供心に思ったものでした。
……でも、これが解明される事が本当に正しいのか、と疑問を投げかけている話もありましたな。
『神』の正体が人類の集合的無意識であると解明され、人間がそれらの力を使いこなせるようになった未来。
主人公はひとつの事件を追う。そこで彼は、未熟で未成熟で野蛮な過去に行き、その文明の中で、しかし『神のいる』世界の奇跡と救いをまのあたりにするというものです。題名忘れた orz
「──だけど、わたしたちの世界には、もう神はいない」
悲しげな主人公のつぶやきが胸にささる一編でした。
ああ、またあれ読みたいなぁ。なんて作品だったろう。
>ああ、またあれ読みたいなぁ。なんて作品だったろう。
それは恐らく、麻紀ゆう原作/道原かつみ作画「ノリ・メ・タンゲレ」です。
主人公は、歴史調査局員のヴェアダル(この名前は「閏年」と言う意味です)。
これはコミックリュウの連載作品で、この作品の原作と続編が掲載された同人誌は、私の荷物の中のどこかに今も眠っている。
私と友人数名でこの作品をラジオドラマ(音声と音楽だけのドラマ)に仕上げ、リュウ編集部を通じて作者さんに送り、イエス・キリストを演じた友人の声が良かったと言うレスポンスを得ています(この男は後に小劇団の一員となった)。
ね?
世の中には、説明が付きにくい偶然があるでしょ(笑)。
おお、打てば響くような。さすが先生。
>>麻紀ゆう原作/道原かつみ作画「ノリ・メ・タンゲレ」です。
おおお@@それか。
このタイトル「我に触れるな」というこれが強烈に記憶に残っていたのですが。ふむふむ
>>ね?
>>世の中には、説明が付きにくい偶然があるでしょ(笑)。
いやまったく ^^;
>>麻紀ゆう原作/道原かつみ作画
このコンビの作品群は傑作多いですね。
てか、ここで「ぴきゅーん」と反応しちゃうタイプのSF好きは貴重です。
やたらとイケメンが多いですが ^^ いいんだいいんだ。パンドラの惑星(ほし)のティッチとか可愛い子の描写もおもしろい。
(あの作品は、主人公の性格や行動も男性作家のそれとは違ってて実に面白い。全然別ジャンルだけどマンディアルグと片岡義男の比較みたいです)
この方達と、萩尾望都系っぽい真乃呼『緑の世紀』あたりは個人的に外したくないところです。
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