2009年3月6日金曜日

デスクトップ崩壊へ ──何を今さら

 ここ数ヶ月、あちこちのニュースサイトなどの記事をみると、デスクトップのシェア減少やノートへの主力移行が今さらのように伝えられていた。
 私に言わせてもらえば「いったいどれだけ時代遅れなの」としかいいようがないのだが、まぁ仕方あるまい。大手ニュースサイトで精力的な新人が「デスクトップなんて職業上そういうのが必要な人とオタクのためのものでしょう?」なんて言おうもんなら、その意味が理解できない旧式のおっさんユーザーたちが「何いってんの?ノートなんて高くて遅くて使えないもん、ほいほい買うわけないじゃん」と一笑に付して終わっていたのだろうから。こちらにしてみればそんなもの「あんた電器屋のPCコーナー見たことあるのか?」と言いたいわけなのだが。

 結論からいうと、もうデスクトップなんてものは市場自体がニッチ向けになっているのだ。電器屋にあるのはノート、あるいはノートベースのデスクトップ風一体化マシンの類だ。五月蠅い、ごちごちゃしてる、ダサイと三拍子そろった「高性能デスクトップ」とやらはちぃとも売れないのだ。売れないものは置かない、というわけでとっくの昔に普通のお店では並べなくなってしまっているのだ。

「そんなわけねえじゃん。メーカーサイト見ろよ」

 そう。確かにメーカーサイトにはデスクトップも並んでいる。通販でも買えるだろう。
 だけどね、普通のユーザは保証コミでお店で買うんです。見たこともないパソコンを、しかも通販購入なんて大冒険するのは元々普通の人じゃないんですよ。だからお店にないって事はつまり、選択肢にのぼらないって事なのです。
 ではなぜ、デスクトップがなくなったのか。ノートばかりなのか。
 私はこのあたりを、こう分析しています。

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 同じ性能、同じ内容ならば、据え付けで動かせないよりも家中移動できるほうがいいに決まっている。少なくともこれは間違いない。
 ラジオもテレビも同じような末路をたどった。テレビは大画面志向が存在するおかげで辛うじて大型市場が残ってはいるけれど、これはおそらく進化の本道ではない。それがメディア端末の性格をもつ限り、公用から家庭、家庭から個人とスモールダウンしていく流れは止めようがないからだ。

 PCは本来これらメディア端末ではないが、一般人がPCに求めるのは双方向性の、やはりメディア端末だといえる。メールにしろ年賀状にしろそういうことであり、一部のニッチを除けば高性能デスクトップなぞ元々必要ないのだ。
 ではどうしてデスクトップが売れてたのか。簡単だ、ノートが単に馬鹿高かったからだ。
 しかし時代は変わる。デスクトップがCRTから液晶に移行した時、この結末はすでに決まっていた。
 充分に使えるポータブルは据え付けの高性能機を軒並み食いつぶす。これは電機史の史実であり私の思いつきなどではない。価格・機能・ニーズの三面で十分折り合えるようになったポータブルは歴史の力学にしたがい、据え付け機の市場を奪っていく。ただそれだけの話なのだ。

 むかしのPC評論家でエコを語る者はほとんどいなかった。いや、それどころかつい最近までほとんどいなかった。なぜだろう?
 簡単だ。これらのPC評論家はオーディオマニアと同じ人種が大多数で、性能とコストパフォーマンス以外にまったく無関心だったからだ。
 普通の家電なら当然あるはずの騒音問題なども気にしない。彼らは「PCは速さが命」と断言して憚らず、エコにこだわったり静音に向かうのは「アパート住まいなどの特殊事情」とか「事務用途などのニッチな方向」と決め付け、その考えを覆さなかった。
 しかし現実は違った。彼らの目は結局、高度経済成長時代の「隣の車が大きく見えます〜」な感覚から一歩も進歩してなかったんだろう。
 だってねえ。
 いくら性能よくたって、数百ワットの電源ついててガンガン電気食うマシンなんだよねえ。しかも、ゴーゴーものすごい音たててさ。
 そんなの、いくら性能よくたってみんな欲しがるわけないじゃん。
 アタマ悪すぎだっての。

 日本は確かにノートの普及が早かった。それは住宅事情によるものなのだけど、だからといって「海外の広い家でノートなんかいらないだろ、こんなのうさぎ小屋のニーズだ」なんて、したり顔で言ってた評論家たちはあまりにも海外オンチと言うしかあるまい。実際には「電源事情」という日本よりはるかにシリアスな理由でノートPCが好まれていたのだから。そりゃそうだ。UPSとセットでデスクトップを買うくらいなら、ノートという選択肢だって当然あるだろ。
 そしてなにより「コンセントさえあればどこでもhackできる」ことでGeekたちもノートを好んだ。そういうことだ。

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